キルギス視覚障害者事情(2011年調査時)

(1)視覚障害者の人数

キルギスには約5400人の視覚障害者がいます。そのうちビシュケクには800人ほどいます。

(2)視覚聴覚障害者協会

キルギスの首都、ビシュケクにある「視覚聴覚障害者協会」に配属され主にビシュケクにある点字図書館、盲学校、リソースセンターが活動の場となります。またキルギス内には54の支部と11の授産施設(工場)があり、任期内にはこれら地方との連携を図るためにこれらの場所も活動の場となりうる。「視覚聴覚障害者協会」は1937年に設立され、代表者はMr.]MambetaKunov氏である。現在、9445名(視覚障害者5364名、聴覚障害者 4081名)の会員によって構成される。全国に授産施設(工場)11箇所、59の支部がある。協会は障害者の社会的自立を支援しているがその台所事情は厳しい。その為多くの関係機関の支援を受けており主なものにSOROS(アメリカ)、ABILIS(フィンランド)、日本大使館、スイス大使館などがある。日本は「草の根無償資金」にてコンピュータ、点字器、点字ディスプレイなどを支給している。
現在、この協会で欲しいと願っているものは、補聴器、テープレコーダ等の本を読むもの、携帯電話と言っている。

(3)視覚障害の原因

1 Glaucoma (緑内障) 20.8 %

2 Diabetes(糖尿病 網膜病) Retina disease 19 %

3 Retinitis pigmentosa(網膜色素変性) 13.4 %

4 Macular degeneration(黄斑変性) 9.1 %

5 Cataract(白内障) 3.1 %

(4) 視覚障害者の 職業

マッサージ業、教師、弁護士、歌手、コムス奏者、議員(仕事をしている人は視覚障害者の3割(推定))

(5) 障害年金(ビシュケク市の場合)

1級:3000ソム 2級:1500ソム 3級:1000ソム

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(5)視覚障害者の人数

キルギスには約5400人の視覚障害者がいます。そのうちビシュケクには800人ほどいます。

(6)視覚聴覚障害者協会

キルギスの首都、ビシュケクにある「視覚聴覚障害者協会」に配属され主にビシュケクにある点字図書館、盲学校、リソースセンターが活動の場となります。またキルギス内には54の支部と11の授産施設(工場)があり、任期内にはこれら地方との連携を図るためにこれらの場所も活動の場となりうる。「視覚聴覚障害者協会」は1937年に設立され、代表者はMr.]MambetaKunov氏である。現在、9445名(視覚障害者5364名、聴覚障害者 4081名)の会員によって構成される。全国に授産施設(工場)11箇所、59の支部がある。協会は障害者の社会的自立を支援しているがその台所事情は厳しい。その為多くの関係機関の支援を受けており主なものにSOROS(アメリカ)、ABILIS(フィンランド)、日本大使館、スイス大使館などがある。日本は「草の根無償資金」にてコンピュータ、点字器、点字ディスプレイなどを支給している。
現在、この協会で欲しいと願っているものは、補聴器、テープレコーダ等の本を読むもの、携帯電話と言っている。

(7)視覚障害の原因

1 Glaucoma (緑内障) 20.8 %

2 Diabetes(糖尿病 網膜病) Retina disease 19 %

3 Retinitis pigmentosa(網膜色素変性) 13.4 %

4 Macular degeneration(黄斑変性) 9.1 %

5 Cataract(白内障) 3.1 %

(8) 視覚障害者の 職業

マッサージ業、教師、弁護士、歌手、コムス奏者、議員(仕事をしている人は視覚障害者の3割(推定))

(9) 障害年金(ビシュケク市の場合)

1級:3000ソム 2級:1500ソム 3級:1000ソム

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ビシュケク盲学校訪問


日時 2011年3月2日(水)13:00~14:30
場所 ビシュケク盲学校
訪問者 カリマ アマノブナ校長/副校長シディコバ 報告者 松田 信治
ビシュケク盲学校での調査、質問内容
最初にこの学校の設立は1937年で最初は建物が一つであったが、その後建て増しして今の規模になったとの説明が校長よりあった。以下、質問と回答です。

  • キルギスには盲学校はいくつありますか(ビシュケクとその他)(日本には69校ある)
    →オシュとここの2箇所だけ。オシュは2005年に開校した。ここの生徒数は180人。100人は弱視、
    80人は全盲である。
  • 何歳から何歳まで勉強していますか?どのように分けられていますか?
    →7歳から17歳まで1年生から11年生まで。18歳の人は在学中に手術を受けたりした人である。
  • 視覚障害者のうち盲学校へいける人はどの位の割合ですか?
    →90%は盲学校に入学。10%は家にいる。地方の視覚障害者はビシュケクの親戚の家からこの
    学校に通っている。
  • 盲学校には寮がありますか?どの位の人が寮に入っていますか?(日本には68校に寮がある)
    →寮に入っているのは150人ほど。寮は月曜日から金甌日まで、週末は自宅に帰る。
  • 点字の教科書は無償で配布されていますか?
    →政府より無償で配布されている。
  • 授業では何を教えていますか? (点字指導、白杖を使った歩行訓練、日常生活)
    →普通の学校でやっているものと同じことをやっている。但し製図などはやっていない。(物を
    いろいろな方向から見て描く)点字指導、白杖を使った歩行訓練も実際に市内に出てやっている。
  • 重複障害の方は盲学校で教えていますか?
    →この学校では視覚障害だけ。昔、ソ連時代には一つモスクワの近くに重複障害の人達を集めて
    教育する場所があった。キルギスからも一人送り、今ではそこの教授になっている。
  • 体育の授業では何をしていますか?(テーブルテニス、フロアーバレー、ゴールボール、水泳、
    陸上競技など実施)
    →テーブルテニス、ゴールボール、チェス、陸上競技を行っている。水泳はやっていない。1週間に
    2時間ほど。カリキュラムが組まれている。
  • 盲学校で今、足りない教材はありますか?
    →日本大使館とJICAからの寄付のお陰でオシュとビシュケクに点字の本を作っているの。(足りない教材はない)
  • 弱視の方には「拡大読書機」が使われていますか?
    →使っていない。パソコンで文字を大きくしている。ここでのコンピュータは大使館とJICAから寄付してもらった。
  • 盲学校でパソコンの教育はされていますか?
    →普通の学校でやることと同じことをやっている。本をスキャナーでイメージを取り、(文字認識して)音声で聞いている。ここの機器で今まで3000冊の点字本を印刷した。(文字認識はファインリーダを使っている)
  • 職業訓練:あんま、マッサージ、などを教えていますか?
    →中学校を出た9年生から教えている。それは総合的な治療的なものです(中国式ですかの質問に対し)
  • 盲学校の行事には何がありますか?
    →沢山有る。キルギス語のフェスティバルに参加したり。
  • 盲学校を卒業した後、どんな仕事をしていますか?
    →80~90%の人が普通の大学に行きます。その後、公務員になったり、ビジネスをやっている
    人もいます。学校では「赤い証明書」と「白い証明書」を卒業時に渡します。「赤い証明書」は優秀な
    生徒にです。視覚障害者で国会議員になった人が2人います。クラシェンカという副大臣になった女性もいます。エレセイフという今回の政変で大統領と一緒に逃げた人もいます。この学校を出た人は優秀な人が多い。(80~90%の視覚障害者が大学に行っているのは信じがたい数字であった。数字が一桁多いのではと感じた)
  • 大学に視覚障害者が入学していますか?その時に点字で試験を受けますか?
    →点字での試験を行っています。
  • 私は走ることが趣味ですが、視覚障害者の方で走りたいと思う人はいますか?
    →最初、私が彼らと一緒に走ることを「大丈夫だ」と言う返事でいつが来られるのか聞かれたので
    「土曜か日曜日」と答えると「生徒は朝から晩まで忙しく、週末には自宅に帰る」「何か事故があったら私は責任を取れないので許可は出せない」「それも医者の許可が必要。私も責任を負いきれない。何かあると親が私のところに来る」「体育の先生の両親から許可を貰って授業をしている」。このようなことは文部科学省からの通達でやっている。とトーンダウンしていった。

(これ以上、無理にお願いしても駄目と判断し話題を変えました)

→校長から「日本でも同じではないか?」との質問があったので「文部科学省による指導はありますが、課外でのスポーツ活動に関しては、自己責任でやっている」と答えました。

  • この盲学校で何か問題点がありますか?
    →細かい問題は一杯あるが、ゴールボールが古くなって使えない。点字のチェスが使いにくくなっている。
    私が「テーブルテニスのラケットとボールを持参して、実際の授業も見学したい。出来ますか?」とお聞きしたところ、「来て下さい」との返事で、体育の教師と連絡を取ってもらい3月17日(木曜日)10時40分からの授業を見学する約束を行った。

以上こちらが用意していた質問に丁寧に答ええいただけた。校内の見学を申し出たところ、校長自らが案内をしてくれた。丁度、授業が終わった放課後という感じで、教室はとても綺麗で、物理の教室には棚にいろいろな教材が並べられていた。寄宿舎の部屋も見せていただいたが、とても綺麗に整頓されていた。すれ違う生徒は「ズドラースト ビッチェ」と挨拶し、とても生き生きしている。「日本の盲学校と同じだなー」と感じた次第。コンピュータを教える教室にはパソコンが10数台並び、それぞれにスクリーンリーダ「ジョーズ」がインストールされ。

点字プリンターも2台。ピンディスプレイが1台接続されていた。私と一緒に同行した通訳をお願いしたアイヌーラさんが「普通の学校より綺麗」という言葉が印象的だった。

以上
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ビシュケク点字図書館訪問

日時 2011年1月19日 2時50分~4時20分
場所 ビシュケク点字図書館
訪問者 館長:ジュマバイ氏、職員:ダニエル 報告者 松田 信治
JICA職員の通訳、アイヌラーさんとビシュケクの点字図書館に行ってきました。

場所は私のアパートから歩いても15分くらいでした。ビシュケク市の北の端、街から離れたところにあり、小さな建物の地下に案内されました。入り口を入って、ここの館長さんジャマバイさん(視覚障害者)のお部屋に通されました。そこに職員のダニエルさん(視覚障害者)も来てくれて、今回の訪問の趣旨を通訳のアイーラさんが説明。自己紹介をしました。まずは中を案内ということで、書庫を通って(写真1)案内されたのがコンピュータが3台が置いてあるお部屋。

ここで弱視の学生と思われる女性が画面に映し出された情報を読んでいて、2人の女性職員がいました。ここの部屋の説明をジャマバイさんがされた内容はこの3台のコンピュータシステムはLANで接続され部屋の中にある点字プリンターと接続されているとのこと。また、ピンディスプレイ(写真4)も2台のコンピュータにそれぞれ接続されているとのこと。
またスキャナーがありOCRで文字認識することが出来ている。コンピュータ3台にはスクリーンリーダ(JAWS)がインストールされていた。
点字プリンター、ピンディスプレイ等は日本からの草の根無償資金によって昨年送られたもので、問題なく稼働中とのことであった。今回、私がJICAとして日本に来た目的は何かと聞かれたので「視覚障害者のサポートで2年間ビシュケクで働く」こと。会社ではコンピュータのエンジニアとして35年間働いていたこと。視覚障害者の伴走が趣味であることをお伝えした。私がコンピュータのエンジニアだったことを言ったところ「スクリーンリーダではロシア語は話すことができるが、キルギス語(ロシア語より3文字多い36文字のキリル文字)が対応していない。そこが問題である。欲しい}
と話されていた。(キルギス語が話せるように対応するにはソフト開発と多額の開発費がかかることを伝えた)

この後、館長さんのお部屋に戻って、通訳を介して用意した質問をさせてもらった。(館長のジャマバイさんの前にあるキルギス語の点字が大きく打たれているフィルムは中途失明者が点字を学習するためのものだそうです)

質問内容:

1.この点字図書館はいつ設立されたか?→1970年で今年で40周年になる。

2.この点字図書館のスタッフは何人ですか?→5人(2人の男性と3人の女性)うち視覚障害者は3人とのこと。

3.開館時間は?→朝8時半から16時半(月曜日から金曜日)

4.蔵書はどのくらいありますか?→26,000冊ほど。(この中で9000冊のものが古く利用されなく撤去したと言って、持ってきたものがオープンリールのテープであった)今はロシアからデジタルデータでネットで取り寄せている。

5.利用者はどのくらいですか?→季節によって異なります。平均して一日15人~20人の視覚障害者が来ます。

6.蔵書でロシア語とキルギス語の割合は?ロシア語の蔵書が98%、キルギス語の蔵書が2%である。

7.貸し出し期間は?→本の中身によって違う。厚いものは長い期間になる。(ちょっと意味不明)
8.日本では郵送によって点字本を送ることができるが、キルギスではどうか?→郵送はやっていない。しかし要望があると車で運んで渡し、その時に貸し出しの要望も聞いている。

9.日本ではボランティアが点字本を作って点字図書館に寄付するシステムがあるが、キルギスではこのようなボランティアはいますか?→手で点字本をう打つのですか?いませんね。

10.どのようにして蔵書を増やしているのですか?→ロシアのサンクトペテルブルクに印刷所があり、そこの点字システムが3ヶ月ごとに20種類のカテゴリーの本を送ってくる(ネットで。

11.点字図書館の数はどのくらいありますか?ビシュケクには一つだけ、キルギスとしては他に二つの盲学校の付属の図書館があります。またカラコルに支部の点字図書館があります。

12.対面朗読はやっていますか?→経済的な理由でやられていない。しかしコンピュータが読み上げてくれる。

13.この点字図書館として問題点はなんですか?→ホームページがないこと。インターネットの通信速度が遅いこと。最後に今回の訪問のお礼を述べたところ、「これからも点字図書館の点字システムのことでいろいろ聞きたいこともあるので宜しく」と館長から言われ私からは「今後ともコンタクトを取り合って、もっといろいろなことをお聞きしたい、宜しくお願いします」と握手をして別れた。

感想:今回、英語の通訳を介しての訪問であり、通訳のアイヌーラさんには大変お世話になった、ただ私の英語力の無さから、上記情報に誤りが多少あることはご容赦願いたい。質問時には録音し、館長さんの説明のロシア語がいずれ理解できるようになったら、もう一度内容の吟味をしてみたいと思っています。館長のジャバマイさん、職員のダニエルさんはとても親しみやすい良い方で、ダニエルさんには次回来た時に「キリル文字の指文字」を教えてほしいと約束した。楽しみである。 以上

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授産施設(工場)訪問記

日時 2100年3月22日 10:00~11:00
場所 ビシュケク視覚・聴覚障害者作業所
訪問者 ジャイコロジーさん(社長)、ジャヌスさん(工場長) 報告者 松田 信治

点字図書館の同じ建物ブロック内にこの工場ありました。アイラさんと点字図書館で待ち合わせしている間、この地域に多くの視覚障害者が住んでいるので何人か、白杖をついて歩いている方を見かけました。
アイヌーラさんと3階の受付に行きますと二人の男性が待っていました。私の質問に答えてくれたのは社長のラフマノフ・トクトンベック・シャイコロジー(視覚障害者)さん、工場見学を案内してくれたのは工場の代表(工場長?)のアスタンベック・ジャヌスさん(強度のメガネをかけた方)

冒頭、社長さんから日本の地震被害に関してい哀悼の意を表されました。それに対しお礼を述べました。私もキルギス語で自己紹介をしました。下記質問をしました。

1.ここでは何人の方が働いていますか?
→こちらでは172人の人が登録されており、そのうち150人が視覚障害者と聴覚障害者です。
そのうち実際に働いているのは25人です。

2.全盲の方はいますか?
→細かく分けていません。

3.勤務時間はどうですか?
→ソ連時代は厳しかったのですが、今は仕事があれば8時から4時まで働いています。

4.ここではどんなものを作っていますか?
→2種類あります。ガラスビンのフタ。車のフィルターを作ったりしています。見学したら分かりますよ。またシートも作ったりしています。もし良かったら見学して下さい。

5.ここで働いて1ヶ月いくらですか?
→やっている仕事にもよりますが1ヶ月、400ソム~500ソムです。

6.このような作業所はキルギスにはどのくらいありますか?
→ビシュケクには3つあります。2つ目は女性の盲ろう者の方が働いており、物を縫ったりしています。3つ目は男性の盲ろう者が椅子や机を作っています。後、ベラモツキー、トクモク、カントという町にもあります。カラコル、ジェララバードにもあります。

7.ここでは重複障害の方は働いていますか?
→こちらでは働いていません。目の見えない人と盲ろうの人だけです。(盲ろう者を重複障害と見ていないようだ)

8.ここの作業所の問題点は何ですか?
→問題は一杯あります。まず注文が少ない。設備が古いです。ですから外からの要求に応えられない。設備が古いので良いものが作れない。競争が激しい。(一般の会社のほうが良いものを作っている)

9.政府の支援はありませんか?
→障害者に対して税金は少ない。電気代、水道代は50%支払いです。
仕事以外にこちらにはクラブがあります。何人かの人が歌を歌い、民族楽器を教えたりします。この工場にはバスがあり、このバスに乗っていろいろな場所、イシククルに遊びに行ったりして行事をしています。
→是非、そういう所に参加したいです。
→是非、行事のある時に連絡しますので参加してください。

10.ソ連時代と今とで視覚障害者の方の生活にどういう変化がありましたか?
→一番の変化は視覚障害者の仕事が少なくなったことです。

11.これから将来、どういうことを考えていますか?
→今、政府(内務省、文科省)から直接、紙を止めるもの(ファイルのこと)を作っています。そういうものをこちらに直接注文してもらうようにして欲しい。今、布団シートをこちらに直接注文して欲しいと言っているが回答を待っている所です。ユニフォームもこちらで作りたい。

12.新聞紙で手提げ袋を作ることは出来ますか?(紐もつけて100くらいのオーダで)
→前は作っていましたが、今は作っていません。今は中国から安く入ってくるので、要求がない。前は手をつける紐は無かった。

  • 100くらいのオーダで注文したら作れますか?
    →今は作れません。作るには資料が必要です。模型が必要です。どういうものに使うかが必要です。紙も必要ですし、前は品質の良くないものを作っていた。
    →こちらから紙を支給、紐も支給すれば出来ますか?

→模型とか紙をもらえれば出来ると思います。

13.日本ではマッサージを仕事にする視覚障害者は多いですが、こちらキルギスではどういう仕事をやっていますか?
→マッサージはこの国でも多いです。医学大学では毎年20人の人が卒業していますが、マッサージの仕事が少ないです。こちらでもマッサージもあり、歯医者もあり、視覚障害者も割引で受けています。

工場見学を行う。

工場長:ソ連時代にはこの3階の建物の1階から3階までビンのフタを作っていました。ソ連が崩壊した後、ロシアからの資料も止まってしまって今は作れない状態。今は縫うことを多くやっています。
ファイルの紙留めの金属を取り付けている作業場、(視覚障害の女性が6人ほど男性が一人がこの作業をしていました)皆、おしゃべりをしながら楽しそうに作業をしていました。

この作業をするのにいくらのお金が入りますか?
→税金を入れれ1冊、5ソム(約10円)です。
この作業は続きますか?
→注文が入って時だけです。
隣の部屋で、この留め金具を板金から作っている場所に案内、型を抜いている弱視の男性。プレス機を使い加工された板金を組み合わせてプレスしている全盲の女性が一人黙々と作業をやっていました。この工場では遊んでいる部屋14部屋を外部の会社に貸して、そのレンタルのお金で収益をあげているとの説明も受けました。

フタを作っている作業場所とシートを縫っている作業場所には案内が無かったのですが、対応してくれたお二人の視覚障害者の社長と工場長、とても我々の訪問を歓迎してくれて、回答しにくい質問にも丁寧に答えてくれました。

私が想像していた以上に「視覚障害者」には仕事がなく、苦しい生活を強いられていることが分かりました。しかし視覚障害者同士は助け合い、仲間を大事にして交流していることが分かりました。今度、こちらの工場のイベントのお誘いがあった時には是非とも、参加して彼らと交流し、友達になろうと思っています。


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ビシュケクろう学校訪問

日時 2011年3月16日(水)1時~2時
場所 ビシュケクろう学校
訪問者 副校長:ルスカンさん 報告者 松田 信治

協会からマルシュに乗って20分ほど、ビシュケク市の東の外れに「キルギスろう学校」はありました。広い敷地に立派な建物です。1961年に創設。中に入ると副校長の部屋に案内されました。(校長は病気で休んでいるとのこと)まず、私がキルギス語で「挨拶」をしました。その後、学校の概要説明がありました。
(ルスカン)キルギスにはろう学校はここの学校一つだけです。355人の生徒がいます。33のグループがあり、それぞれ11人から12人の生徒が勉強しています。33のグループの中から8クラスには重複障害の人がいます。(視覚障害との重複者は30%が見えています)8クラスの重複の人達を教えるのは大変です。
普通の学校で教えているもの以外に重複障害の方のための授業もあります。私達は聞くためにいろいろな教え方をしています。口を見て発音するため、音がしたら隣にある机が手で触ると感じます。 松田)知的障害の人はいますか?
→(ルスカン)5つの障害を持っている人がいます。355人の中に78人が知的障害を持っています。
このような人達のためにその生徒が入学した日から、社会のことが分かるために、いろいろなことをやっています。外に一緒に出たり、両親と一緒に話を聞かせたり、いろいろなサークルもあります。あともう一つの課目は口を見て「マーマー」といったら、それを教えて分かると言う課目もあります。あと、手話でいろいろな行動が分かります。あと音楽でいろいろ行動をしたりするものも有ります。こちらでは1時半から食事が始まりますのでまず教室を見ましょう。副校長先生が案内

①キルギス語を教える教室→子供が「ドラーストビッチェ」と手話で挨拶をする。→生徒が作ったものを見せてもらう。→1年生のクラス(先生が一生懸命教えている)→高校生の教室→→食堂→知的障害を持った生徒の部屋。寮を案内(寮に入っているのは280人)→テレビのある広間(これは韓国からのプレゼントです)→こちらには280人の泊まれる部屋があります。7州から来ています。ビシュケク州、チュイ州は泊まれなく通っています。→健康管理室→各部屋を案内してもらう。(ベットには2010年に買った新しいものから旧ソギエト時代の古いものなどあり、いろいろな国から援助を受けていると説明)
→(ルスカン)この男性は高校10年生で「ハサンさん」です。この学校で優秀な学生です。→女の子の部屋。(これは高校生の女性が作ったカーテンです)ここには工場もあり、こちらで勉強して作っています。
いろいろな市内のコンクールに参加して作っています。この建物は1961年に作られ、壁はとても上部ですが床にひくものが壊れたりしています。→廊下の壁に「学校の行事、歴史、スポーツに参加」の写真が飾られていました。(写真を90以上の参加のあった大会で8位になった時の写真を見せてくれました)

(松田)手話はキルギス語でありますか?

(ルスカン)キルギスは旧ソ連に入っていましたので、モスクワの手話システムのもとでキルギス語も作り、違いはありません。モスクワのもと、キルギス語で出版しましたが数がたりません。足りない教材は一杯有ります。(松田)コンピュータクラスはありますか?→(ルスカン)二つのコンピュータクラスがあり、1つには8台のコンピュータ。もう一つには6台のコンピュータがあります。アメリカ、インドから貰ったものです。

(松田)大学へ行くろう者はいますか?→(ルスカン)大学には入れません。ソ連の時はそれぞれの国に1つはありましたが今はないです。でも短大があってそこで勉強しています。
(ルスカン)私は地理の先生ですが日本に地震があって、テレビを見て心が痛みます。子供たちもこの地震で「日本はどこか?」と探しています。今回の災害は自然のもので、全国の人達が心を痛めています。私が出来ることがあったら手伝いたいです。マラソンみたいな大会が5月9日にあり、学校内の先生、生徒が参加します。松田さんも参加してください。これからもいろいろな行事に参加してすくれれば有り難いです。いろいろな行事で練習をしたり、踊りのクラスもありますので見せたいです。2年間、いろいろな計画があると思いますので私達も協力したいです。今、校長は入院していますが、今度来られる時は校長と会って下さい。こちらの学生達は障害を持っていますが「親切」です。これは最初の「愛」です。これから始めましょう。これが最後ではありません。(私から「ハモニカのペンダント」をお礼に贈呈しました。

(ルスカン)日本が大変な時に来てくれて嬉しいです。この冊子は生徒達が「ボルガ」に行った時に
描いたものです。学校からのプレゼントです。この学校の子供たちが「心」で何を思っているか描かれています。次回、また来られる時はここに載っている生徒達も紹介します。ここの生徒達の心は綺麗です。良かったら良い。悪かったら悪いと言います。貴方のことを皆「日本から来ていますか?」と聞いてました。

(ルスカン)こちらの国の58%はキルギス人で、キルギス人はお客さんが好きです。こちらの学校
二人の先生がひとりは4年前、一人は2ヶ月前に日本に行きました。日本のことは良く分かっています。貴方のキルギス語の発音は素晴らしかった。キルギス語を話してくれて嬉しいです。お互いに協力していきましょう。いつでもどうぞ来てください。(松田)5月9日にそちらに行きたいと思います

(ルスカン)そちらもいろいろなものを紹介してください。これは最後ではありません。これからも宜しく。
感想:こんなに私の訪問を歓迎してくれて対応してくれたことのに感謝の気持ちで一杯であることと、これがキルギスのろう者とのお付き合いの最後でなく、始まりなのだという気持ちになりました。



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